2021年01月23日08時32分
記録とともに型破りな生活や言動で知られた古き時代の白人大リーガー、ベーブ・ルースとは対照的だった。22日死去したハンク・アーロンさんは、感情を表に出すことが少なく、「物静かな男」と呼ばれて敬愛された。
人種差別が激しかった南部アラバマ州の生まれ。幼い頃は貧しく、用具を与えられて野球に親しむような生活ではなかった。黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンに憧れ、野球を本格的に始めた頃は、右打者なのに左手を上にしてバットを握る「逆グリップ」だったと伝えられる。
黒人だけのニグロ・リーグで素質を認められ、大リーグのボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)と1万ドル(現在のレートで約104万円)で契約。1954年にメジャー昇格を果たすと、同年4月23日に1号本塁打。以来183センチ、80キロほどの細身の体でアーチを量産した。
ルースの大リーグ記録714号にあと1本と迫ってシーズンを終えた73年から翌74年にかけて、白人至上主義者らの脅迫に拍車が掛かった。殺害予告もあった。逆風の中、74年開幕戦でタイ記録、4月8日のドジャース戦であっさり715号を放って抜き去った。派手なガッツポーズも雄たけびもなく、淡々とダイヤモンドを1周。40歳になっていた。
「ハンク・アーロン」の名を日本のファンに浸透させたのは巨人の王貞治だ。74年の日米野球で来日した際、2人は本塁打競争で沸かせた。77年、王が756号の世界記録を達成した際、一部の米メディアは球場の大きさの違いなどをあげつらい、その価値を認めようとしなかった。米国で今とは比べ物にならないほど日本野球の認知度が低かった当時、王を心から祝福したのは、ほかならぬアーロンさんだった。2006年のワールド・ベースボール・クラシックでは、王が率いた日本の優勝を自分のことのように喜んだ。
珍しく感情をあらわにしたことがある。バリー・ボンズがアーロンさんの記録を塗り替えようとしていた日、球場で行われるセレモニーに出るのかと問われた時だった。「その瞬間に立ち会うつもりはない」。薬物使用が取り沙汰されるボンズと自分との歩みは違う。そんな強烈な自負が短い言葉にこもっていた。数少ない本物の職人が、去ってしまった。(時事)
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