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Monday, November 29, 2021

お年玉で「柱」を買いたかった 職人にあこがれ、極めた和菓子の技 - 朝日新聞デジタル

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 厚生労働省が工芸や衣服など卓越した技能者を顕彰する「現代の名工」の一人に11月、菓子職人の山本直樹さん(61)=大阪府大阪狭山市=が選ばれた。大きな手から生み出される、鮮やかで小さな和菓子。「和菓子にはけっこう優しいです。顔が怖くて短気なのに、和菓子は柔らかいラインが好きなんですよ」

 3歳のときに徳島県から大阪狭山市に移り住む。両親は会社員で、甘い物をあまり食べない家庭で育った。子どものころから物作りが好きで、大工や板前などの職人にあこがれをもっていた。「祖母と一緒にお風呂に入った時、『お年玉で何を買うの?』と聞かれて、『柱』と答えていた子どもでした」。

 転機となったのは、大阪府立農芸高校に入学してからだった。自宅近くの高校で、「お菓子を授業で作って食べられる」と、食品加工科の製菓を専攻した。クッキークリスマスケーキなど、主に洋菓子をつくっていたが、どら焼きをつくる授業もあった。「その時は和菓子が職人の世界だということに、全然ピンときていなかった」

 卒業が迫り、就職先として先生から和菓子店を紹介された。見学して衝撃を受けた。「麺棒で生地をのばしているだけなのに、きれいな丸になっていく。今なら、少しずつずらしていたと分かるが、その時は『なんやこれは、すごい技やな』と感動したのを鮮明に覚えている」。その場で社長に「お願いします」と頼み、入社を決断。家に帰ってから家族に報告した。両親はビックリしていた。その会社が今の「喜久寿(きくじゅ)」だった。

 18歳で和菓子職人になり、42年経った。初めはつらい日々が続いた。慣れない立ち仕事に、当時はエアコンもなく、夏は汗だく、冬はしもやけだらけだった。当時は「見て覚えろ」という時代。基本的なことは教えてくれるが、ちょっとしたコツは口で説明できない。「突然、『これをやってみ』と言われ、うまくできていれば無言で立ち去り、新しい仕事をさせてくれた。ダメだったら『もういい』と止められ、また練習の日々を送る。その繰り返し」。会社を辞めようと思ったこともあったが、先輩らの支えで続けられた。「不器用だったので仕事が終わった後、毎日練習をしていた。そのおかげで今がある」

 どら焼きの生地作りから始まった和菓子職人の道。十数年後には、会社では最後の仕事とされている上生菓子を任せられるようになった。並行して、菓子研究団体「大阪二六(にろく)会」へも参加し、花鳥草木を表現する「工芸菓子」も本格的に始めた。「硬くなりすぎると割れるので、生地をそらすタイミングが大事。何回も失敗する。でも、自分の技術を高めたいとの思いで取り組んだ」

 05年の食博覧会で農林水産大臣賞を受賞。品評会で多くの入選を果たした。そして今年「現代の名工」にも選ばれた。卓越した繊細な創作力や、母校や専門学校で外部講師として教壇に立つなど、後進指導も評価された。「単純にうれしかった。俺って、職人だったんだなって」

 和菓子製造一筋の職人人生。今後は後輩指導にさらに力を入れていく。「最近では、おはぎをいつ食べるかなど、四季折々の行事を知らない人が増えてきた。和菓子は、日本に昔から伝わる四季を表現するお菓子の一つ。これからも多くの人に和菓子の魅力を伝えていきたい」(井上正一郎)

 やまもと・なおき 1960年生まれ。DIY(日曜大工)が子どものころから大好きで、最近は自宅倉庫の棚を作るなど自己流DIYを楽しむ。大阪市住吉区東粉浜にある和菓子店「住吉菓庵・喜久寿」は、南海住吉大社駅から徒歩約3分。名物は「どら焼き」。営業時間は午前9時~午後6時で、不定休。

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